『サピエンス全史 下』を超ざっくりまとめ。現代の常識がどうやってできたのかの経緯とその影響と未来について

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やっと読み終わりました。

すごいボリュームでした。私たちが当たり前に思っていることが過去どのような経緯を経てできて、私たちの生活にどういう影響力を与えているのかをおおざっぱに把握することができました。

このブログでは、そのうちの「火」「言葉」「農業」「お金」についてとりあげてきました。

人類の歴史は戦いの歴史。人類が霊長類最強になるまでの経緯に考えさせられる

贅沢の罠と強制力。便利になるほど忙しくなるという矛盾は、一万年前の農業革命ですでに起こっていた

お金の歴史と役割と正体

今回「科学」「産業」「資本主義」「国家」「個人」などについてざーっと取り上げてレビューを終わりにしたいと思います。

西暦1500年くらいまでは、上に挙げたものは存在しませんでした。

だから、人々が「贅沢をしたい」と思ったときは「他国を侵略する」という方法が取られていたんですね。私も以前はよく「戦争モノ」のゲームをやっては「侵略たのしー!」と思っていました。

当時の人々は、「自分たちが価値を生み出す」という考えを持っていなかったからこんなことを大真面目にしていたんです。「戦争は聖なるものだ」と昔の武将や騎士たちは考えていたそうですよ。

ところが、科学の力を手に入れてから、贅沢は奪うものではなく作ることができるものになりました。

解決不可能のはずの問題を科学が一つまた一つと解決し始めると、人類は新しい知識を獲得して応用することで、どんな問題もすべて克服できると、多くの人が確信を持ちだした。貧困や病気、戦争、飢饉、老齢、死そのものさえもが、人類の避けようのない運命ではなくなった。それらはみな、私たちの無知の産物にすぎないのだった。  有名な例が雷だ。多くの文化では、稲妻は罪人を罰するために使われる、怒れる神の鉄槌だと信じられていた。

科学の発展は、大きな富を人類にもたらしました。

「自分で富を作り出せる」という自信は、「資本主義」という考え方を生み出しました。

これはスーパーざっくり言うと「稼いだものを再投資すればもっと稼げる。」という考え方です。昔はそうじゃありませんでした。

近代以前には、人々は生産とはおおむね一定しているものだと信じていた。だから、何をしようと生産が大幅に増えることがないのなら、なぜ自分の得た利益を再投資する必要があるのか、と考えた。こうして、中世の貴族は気前の良さと派手な消費を旨とする倫理観を支持した。彼らは収入を馬上試合、晩餐会、大邸宅、戦争、そして慈善事業や壮大な大聖堂に費やした。

そこに科学革命が起こり、進歩という考え方が登場した。進歩という考え方は、もし私たちが己の無知を認めて研究に投資すれば、物事が改善しうるという見解の上に成り立っている。この考え方は、まもなく経済にも取り入れられた。進歩を信じる人々は誰もが、地理上の発見やテクノロジー上の発明、組織面での発展によって人類の生産や交易、富の総量を増やすことができると確信している。

科学は産業革命も起こします。産業革命は人々に大きな力を与えました。

たとえば、蒸気が鍋のふたを持ち上げる力を利用して機関車を動かす、というようなことです。

「力ってのは筋トレして身につけるだけじゃなくて地球にうまってるもんなんじゃん!」てことに気づいたわけです。人間には力不足で到底不可能だったことを、科学の力で解決することができるようになりました。

適切な機械さえ発明できれば、世界のどこでも、どんな種類のエネルギーでも、私たちのどんな必要でも満たすために利用できるのだ。たとえば、原子の中には途方もないエネルギーが蓄えられていることに物理学者たちが気づいたとき、彼らはこのエネルギーを放出させて発電に使う方法や潜水艦の動力にする方法、都市を破壊し尽くす方法をただちに考え始めた。

人々はエネルギーの発掘に夢中になりました。

人間が生み出すよりはるかに大きなエネルギーを機械が生み出したので、人々はそれまでやっていた仕事を機械にやらせて別の仕事をするようになりました。

農業の工業化以前は、畑や農場で生産された食物の大半は、農民や家畜を食べさせるために「浪費」された。職人や教師、聖職者、官僚を養うのに回せる割合はほんのわずかだった。したがって、ほぼすべての社会では農民が人口の九割以上を占めていた。だが、農業の工業化以降は、しだいに少ない数の農民で、しだいに多くの事務員や工場労働者を養えるようになった。今日のアメリカ合衆国では、農業で生計を立てている人は人口の二パーセントしかいないが、その二パーセントでアメリカの全人口を養うだけではなく、余剰分を国外に輸出できるほど多くを生産している。

昔はほとんどの人がお百姓さんでしたが、今はみんなサラリーマンをしていますね。

こうした進歩にしたがって、「戦争で相手から奪う」という富の獲得手法が古臭いものになっていきます。

なにせ科学の発展によって人類は自らをあっというまに滅ぼす力を手に入れてしまったし、世界がテクノロジーによってつながることで、戦争に対する反対の声が大きく取り上げられるようになって、戦争がしにくくなってしまいましたから。

二〇世紀になってようやく、非ヨーロッパ文化にも真にグローバルな視点が取り入れられた。これがヨーロッパ諸国の覇権を崩壊させる決定的な要因の一つとなった。たとえば、アルジェリアの独立戦争(一九五四~六二年)で、アルジェリア人ゲリラ兵は、数の上でも技術的・経済的にも圧倒的優位に立っていたフランス軍を打ち破った。アルジェリア人が勝利を収めたのは、反植民地主義の世界的ネットワークに支えられていたからであり、また、世界のマスメディアはもとより、フランス自体の世論を、首尾良く自らの主張の味方につけられたからだ。北ヴェトナムという小さな国がアメリカという巨人を敗北に追い込んだのも、同様の戦略による結果だ。

しかし、いくらたくさんの富を生み出せるようになったとしても、それを買う人がいなければなりません。

そこで生まれたのが「消費主義」でした。

中世のヨーロッパでは、貴族階級の人々は派手に散財して贅沢をしたのに対して、農民たちはわずかのお金も無駄にせず、質素に暮らした。今日、状況は逆転した。豊かな人々は細心の注意を払って資産や投資を管理しているのに対して、裕福ではない人々は本当は必要のない自動車やテレビを買って借金に陥る。  資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

「富を再投資して資本を生み出す」という価値観と「もっと良いものを使ってもっと良い暮らしをする」という価値観がかみあって今の社会は回っています。

社会が豊かになるにつれて、様々なサービスが誕生し、多くの体制が整って、人類は昔よりはるかに安全に、便利にくらせるようになりました。

しかし、それにともなって昔ながらの家族の絆や地域のつながりは薄れていきます。

なぜなら、昔は家族が担っていた役割を、今は国や社会が肩代わりするようになったからです。

産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来の三つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティ(*)の中で営まれていた。人々はたいてい、家族で営む農場や工房といった家業に就いていた。さもなければ、近隣の人の家業を手伝っていた。また、家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった。

そのうち国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やコミュニティの絆を弱めた。国家は警察官を派遣して、家族による復讐を禁止し、それに代えて裁判所による判決を導入した。市場は行商人を送り込んで、地元の積年の伝統を一掃し、たえず変化し続ける商業の方式に置き換えた。だが、それだけでは足りなかった。家族やコミュニティの力を本当の意味で打ち砕くためには、敵方の一部を味方に引き入れる必要があった。  そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。

制度や法律、メディアが人々の暮らしに介入していることを私たちは身近に感じています。

私が特にこのことを感じるのは、働いているときです。会社では人情よりも規律が優位にあります。

けっこう「あ、これけっこう頑張ったんだけど」ってことが「規律に沿っていない」という理由で反故にされることが多いんですよね。

あんまり人間味がないもんだから、今ではみんな飲み会にも行かないし会社以外での付き合いも減ってきました。

でも良く考えれば、欧米ではこれが当たり前なんですよね。なぜなら欧米のほうが「資本主義」「個人主義」という歴史が長いからです。

日本が今のような資本主義になったのは戦後の70年前です。歴史があさい。今ようやく「個人主義がどうのこうの」といわれるようになってきましたが、このままなんの新しい変化もないなら、ますます家族やコミュニティのつながりは減っていく流れになるだろうと思います。

さて、このように人類の歴史は大きく発展してきたわけですが、はたして幸せにはなれたのか?ということが本書の最後に提言されています。

「幸せ」とは専門的な言い方で言うと「主観的厚生」と呼ばれます。わかりやすくいうと「幸せは自分の心が決める みつを」ということです。

資本主義は富を生んだ代償として、つぎつぎと富を増大させないといけない仕組みです。

止まってしまうと死んでしまうマグロのように、増えるスピードが減るとそれは「信用不安」と呼ばれ、最悪「恐慌」となって世界を大混乱に陥れます。

そこで人々はますます科学に産業にのめりこみ、今では遺伝子操作もできるし人間に代わる頭脳も生み出そうとしています。

たとえば、こんな研究。

ハタネズミはマウスに似た、小さなずんぐりした齧歯類で、そのほとんどの種類が乱交型だ。だが、オスとメスが永続的な一夫一婦関係を結ぶ種が一つある。遺伝学者たちは、ハタネズミの一夫一婦制の原因となる遺伝子を単離したと主張している。遺伝子を一つ加えただけで、ハタネズミのドン・ファンを誠実で愛情深い夫に変えられるのなら、齧歯類動物(と人類)の個々の能力だけでなく、社会構造も遺伝子工学で改変できる日は、遠くないのではないだろうか。

異性にだらしない人でも遺伝子操作でまっとうな夫婦生活ができる!?性格を変えることもできるというのです。

どんなふうにでも変えられるとなると、「人間ってなんぞや」というギモンが湧いてきます。

「シンギュラリティ」という考え方がありますが、これはある点を境にして今までと世界がまるっきり変わってしまうということです。たとえば遺伝子操作でなんでもできるようになれば、今ある問題が問題ではなくなり、人間は人間ではない別の生きものになっちゃうんじゃないの?ということです。

現にすでに人類はその力を手に入れているという話もあり、しかし反対勢力が強くて実現できていないだけだとも言われています。

なによりすでに私たちは、さまざまなコンピュータやスマホ、医療器具、矯正器具によって頭で処理できる限界を超える能力を発揮しており、半分人間らしくない生活をしています。ひゅー。

なんでもできるようになった人間には何が必要でしょうか。それは「目的」とか「意味」「イデオロギー」といった思想的なものだと筆者は述べています。

本の「おわりに」がとても考えさせる内容だったので、ちょっと引用しすぎだけど紹介させていただき、レビューを終わりにしたいと思います。

七万年前、ホモ・サピエンスはまだ、アフリカの片隅で生きていくのに精一杯の、取るに足りない動物だった。ところがその後の年月に、全地球の主となり、生態系を脅かすに至った。今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。  不幸にも、サピエンスによる地球支配はこれまで、私たちが誇れるようなものをほとんど生み出していない。私たちは環境を征服し、食物の生産量を増やし、都市を築き、帝国を打ち立て、広大な交易ネットワークを作り上げた。だが、世の中の苦しみの量を減らしただろうか? 人間の力は再三にわたって大幅に増したが、個々のサピエンスの幸福は必ずしも増進しなかったし、他の動物たちにはたいてい甚大な災禍を招いた。  過去数十年間、私たちは飢饉や疫病、戦争を減らし、人間の境遇に関しては、ようやく多少なりとも真の進歩を遂げた。とはいえ、他の動物たちの境遇はかつてないほどの速さで悪化の一途をたどっているし、人類の境遇の改善はあまりに最近の薄弱な現象であり、けっして確実なものではない。  そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。  自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか。

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